徳島県 四国のみちガイド

阿波歴史のみち

阿波歴史のみち

起点の大麻町大谷は窯どころで、大がめをつくることで有名な大谷焼の窯元が数軒あります。この付近には森崎貝塚など弥生時代以前の遺跡もあり古くから開けていたと考えられます。讃岐山脈の南斜面を東西に走る大断層・中央構造線に沿って「四国のみち」はあり、阿波神社横の前方後円墳を過ぎ、山と接するところに中央構造線の路頭があります。春一番が過ぎ、畑に菜の花、道端にレンゲやタンポポの花が咲きだすと、四国八十八か所の巡礼がはじまります。

阿波歴史のみち(9.0km)

※下記表はスクロールしてご覧ください。

撮影ポイント

霊山寺の山門

認定証を希望する方は、各コースの定められた撮影ポイントで申請者自身を入れた写真を撮影してください。

近隣の観光SPOT

  • 1
    大谷焼

    今から約240年前の安永9年(1780年)に、当地へ巡礼にきた豊後の焼き物細工師の文右衛門が、蟹ケ谷の赤土で焼いたのが始まりといわれています。これに時の藩主、蜂須賀治昭公が奨励保護を加えて発展しました。その後改良を加え、水がめなどの大物を製造しており、巨大なかめを焼く登り窯は日本一といわれています。近年では美術品として、飾り物や灰皿、茶わん等、実用的な新製品が開発され、民芸品として好評を博しています。

  • 2
    東林院

    霊山寺の奥の院で「種まき大師」として知られています。霊山寺から東へ約3㎞、阿波神社から150mのところに位置しています。弘法大師が霊山寺に留まっている間に、自ら米・麦の種をまいて農業を奨励する一方、疫病や旱害の退散を祈念されたと伝わっています。

  • 3
    阿波神社

    承久の乱(承久3年、1221年)に土佐の国に遷幸され、さらに貞応2年(1223年)再び阿波の国に遷幸、そして寛喜3年(1231年)にこの地で崩御された土御門天皇を祭神としています。

  • 4
    土御門上皇火葬塚

    東西45m、南北30m、盛り土の最高部5mの前方後円墳。土御門天皇は承久の乱後、土佐に遷幸されましたが、貞応2年(1223年)小笠原長経に迎えられて阿波に遷幸しました。その後、寛喜3年(1231年)に37年の生涯を閉じ、ここで火葬せられたと伝えられています。

  • 天河別神社古墳群

    前方後円墳2基を含む11基の古墳で構成され、半三角縁二神二獣鏡など3面の舶載鏡をもつ、古墳時代後期のものです。本古墳群近くには、宝幢寺古墳、萩原2号墓があります。

  • 6
    霊山寺

    四国八十八か所霊場、第1番札所です。天平年間(729年~748年)聖武天皇の勅願により,行基菩薩が開基したと伝えられています。のちの弘仁6年(815年)に弘法大師が留まり、21日間修法されて釈迦如来を刻んで本尊とし、八十八か所の第1番の霊場を定めたといわれています。たびたびの火災にあいましたが、その後再建され現在は本堂、大師堂、多宝塔、十三仏堂、仁王間等が残っています。

  • 7
    極楽寺

    四国八十八か所霊場、第2番札所です。行基菩薩の開基と伝えられ、弘法大師の作である阿弥陀如来の像を本尊としています。境内の手水鉢の横には杉の大木があり、弘法大師のお手植えとして伝えられています。天正年間(16世紀後)に長曾我部軍の兵火で焼かれましたが、現在の本堂は万治2年(1659年)に建立されました。この寺は阿波西国三十三か所観音霊場の21番札所にもなっています。

  • 8
    金泉寺

    四国八十八か所霊場、第3番札所です。行基菩薩の開基と伝えられ、金光明寺と号していましたが、のちの弘仁年間(9世紀初め)に弘法大師が訪れた折、黄金井に霊水がこんこんと湧き出ているのを見て、寺号を「金泉寺」と改めたといわれています。この寺には、「黄金井の井戸」、「南朝長慶天皇の御陵」、「弁慶の力石」といった三つの名物があります。

四国のみち踏破記念制度

県内コースの踏破
この制度は、一つの県の四国のみち全コースを踏破した方に認定証を交付するものです。
認定証を希望する方は、各コースの定められた撮影ポイント(撮影ポイント マーク)で申請者自身を入れた写真を撮影し、全コースの写真が揃ったら、それぞれの写真にコースの感想など簡単なメモを付けて住所、氏名、年齢、各コースの撮影年月日を明記のうえ、そのコースがある県の担当課に提出してください。
審査のうえ、県内コースの踏破認定証を交付します。
四国全コースの踏破
四県の全コースを踏破した方は、四県分の認定証をいずれかの県に提出してください。
審査の上、四国全コースの踏破認定証を交付します。

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