宇和文化の里とへんろみち
宇和文化の里とへんろみち
愛媛県内、5つ目のコース、“宇和文化の里とへんろみちコース”は歯長峠が起点です。平成30年度7月豪雨災害により、本コースの1部(歯長峠から歯長橋休憩地付近まで)が流出し、歩くことが出来なくなってしまいました。そのため、被災した区間は県道31号宇和三間線をご利用ください。本コースは、歯長橋休憩所を通過し、左手に宇和川を見ながら、愛媛県歴史文化博物館付近、明石寺をとおり、女医(楠本(くすもと)イネ:シーボルトの娘)発祥の地としても有名な宇和文化の里の中心地に向かいます。宇和文化の里には、二宮敬作の住居跡や、高野長英の隠れ家などの残る古い町並みがあり、幕末の面影をとどめています。なかでも明治15年(1982年)に建てられた擬洋風(ぎようふう)小学校舎「開明学校」は白壁にアーチ型の窓のモダンな校舎として、大正時代の教会と共に、ひときわ目を引きます。この校舎は、当時、文明開化の象徴として、見学者が絶えなかったといわれます。現在は教育資料館として教科書などを展示し、予約すれば明治の授業も体験できます。敷地内には開明学校の前身である「郷校」申義堂や、考古資料を展示した歴史民俗資料館もあります。石畳を降りると、宇和島藩の宿場町、在郷町(ざいごうまち)として賑わった、国の重要伝統的建造物群保存地区「卯之町の町並み」です。白壁に美しい格子戸や腕木、飾り瓦など、独自の意匠をもつ、つつましやかな町並みを歩くと、犬養毅など多くの偉人が宿泊した老舗旅館もあり、歴史のロマンを感じる文化の里です。
宇和文化の里とへんろみち(11.3km)
撮影ポイント
認定証を希望する方は、各コースの定められた撮影ポイントで申請者自身を入れた写真を撮影してください。
近隣の観光SPOT
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歯長峠(はながとうげ)トンネル休憩地
東屋を設置しています。ここから西に向かう昔のルートは、平成30年の豪雨災害により通行止めとなりました。県道を通行ください。
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歯長橋休憩地
東屋とベンチがあります。休憩に最適です。
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明石寺
明石寺は、第43番札所です。現在この寺は「めいせきじ」と呼ばれていますが、本来の名は「あげいしじ」と言います。この名は、昔、若く美しい女神が願をかけて深夜に大石を山へ運ぶうちに夜明けに驚いて消え去ったという話を詠った「軽くあげ石」からついたそうです。山門、本堂などに赤い瓦が使われているのが珍しいです。8月の縁日には、各地から多くの人が集まります。
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愛媛県歴史文化博物館
平成6年11月に開館しました。愛媛の歴史や民俗に関する様々な資料を収集し調査研究のうえ、展示により紹介、各種普及啓発事業を通じ、皆様に歴史や文化を学ぶ機会を提供し、個性豊かな文化の創造に資することを目的としています。小さな子どもにも歴史や文化に興味を持てるよう、昔の遊び体験や時代衣装を着ることができるイベントの開催や、年4回程度の特別展の開催、歴史文化講座や講演会はもとより季節ごとにイベントの開催により、大人から子どもまで幅広い層の方々に、歴史や文化に親しんでもらう取組みを行っています。和紙彫塑家・内海清美氏が弘法大師空海の生涯を和紙人形群で表現した「密●空と海―内海清美展」を新しく常設展示しています。
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開明学校
明治15(1882)年に町民の寄付により建築された擬洋風の小学校校舎です。アーチ型の窓にドイツ製のガラスが使用され、文明開化に近づこうとした町民の教育に対する情熱が込められています。現在は、教育資料館として、明治初期の貴重な掛図をはじめ、昭和初期にかけての資料約6,000点を収蔵展示。また長野県松本市の「旧開智学校」と姉妹館として交流をしています。郷校としても使用された「申義堂」(明治2年築開明学校前身)や、町内から出土された考古資料を展示している第二校舎「歴史民俗資料館」も見学できます。
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宇和民具館
江戸時代末期から、昭和初期にかけて実際にこの町で使用されていた民具約6,000点を収蔵展示しています。祭り・暮らし・商いに関する昔の人々の知恵や思いを今に伝える民具の博物館です。常設展示の他、1階町屋では「おひなさま」「端午の節句」などの季節展示をしています。写真館を再現した展示室で、昔の服を着て写真撮影したり、ロビーで昭和歌謡曲のレコード鑑賞、大正12年製の足踏みミシン体験をしたりと、実際に触れて楽しむコーナーも充実しています。古き良き時代のなつかしさに出会える場所です。
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宇和米博物館(旧宇和町小学校)
昭和3年(1928)年に建築された開明学校後進の小学校校舎を活用した博物館。稲の標本や農機具の移り変わり、米づくりに関する資料を展示しています。さらに第一校舎にある、柱のない109mの長い廊下は必見です。109mの廊下では、ぞうきんがけ体験ができ、完走後、記録入りの認定書が贈呈されます。
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二宮敬作住居跡 女医イネ発祥の地
二宮敬作(1804~62)は保内町の磯崎(いさき)に生まれました。文政2年(1819)16歳で蘭方医を志して長崎への遊学し、同6年シ-ボルトの来日により門下生として鳴滝(なるたき)塾で学びました。同12年(1829)シ-ボルト事件に連座して入獄。同13年(1830)「伺の上江戸かまえ、長崎払」の刑を受け、長崎を追われて郷里に帰りました。天保4年(1833)30歳。宇和島藩主伊達宗紀の命もあって、卯之町(中町の一角)で蘭方医を開業、シ-ボルト門下生中で外科医の第一人者として、天下の蘭学者ぶりを発揮し、多くの患者を救うと同時に翁の仁医は今に語り継がれています。一方、敬作は開国進取的な思想を町民に説き、本町はいち早く文明開化に目覚めたといいます。敬作は、卯之町の自宅に蘭学塾を開き、多くの門下生を育成しています。その中には、三瀬周三、シ-ボルトの娘イネらもいました。イネは敬作から一般医学を学び、宇和町は日本の蘭方女医発祥の地ともなりました。嘉永2年(1849)には敬作の離れ屋に高野長英を匿くまい、この隠れ家は県の史跡に指定されています。
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高野長英の隠れ家
高野長英(1804~1850)は、陸奥国水沢に生まれです。天保10年(1839)「蛮社の獄」で入牢、弘化2年(1845)獄舎の火災を機に逃亡しました。幕府の探索を逃れ、嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、伊東瑞渓と変名して宇和島に潜入し、後学に大きな影響を与えました。嘉永2年(1849)春、シーボルト門下の学友である二宮敬作を頼って卯之町に来ました。同年夏、再び卯之町を訪れた長英を、敬作は裏庭の離れ2階に匿まいました。隠れ家は、階下6畳と3畳、2階4畳半、階段は3畳の間に設けられていたといいます。その後、平屋建に改築され保存されています。瓦葺木造平屋建、間口3.6m、奥行2.7m、建坪9.7平方メートル、床の間と押入れ付きで、北側と南側に2枚の障子と雨戸があります。(愛媛県教育委員会文化財保護課編1993『愛媛の文化財』愛媛県教育委員会より引用)