肱川沿いのみち
肱川沿いのみち
このコースは、水郷大洲を流れる肱川沿いのみちを、大洲城を見ながら、せせらぎを道案内に、のどかな田園風景の中を歩く13.4kmの平坦なコースです。
肱川沿いのみち(13.4km)
撮影ポイント
認定証を希望する方は、各コースの定められた撮影ポイントで申請者自身を入れた写真を撮影してください。
近隣の観光SPOT
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少彦名温泉 大洲「臥龍の湯」(すくなひこなおんせん おおずがりゅうのゆ)
肱川を一望できる臥龍の淵にある、地下1000mから湧き出る源泉を使った天然温泉です。泉質は、低張性アルカリ性冷鉱泉で、神経痛、筋肉痛、関節痛や疲労回復などに効能があります。ゆったりと温泉に浸かりながら、のんびりと肱川の流れを眺めて、四国のみちを歩いた疲れを癒してはいかがでしょうか。
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臥龍山荘(がりゅうさんそう)
肱川休憩地からは対岸に臥龍山荘が見えます。臥龍山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(こうちとらじろう)が余生を過ごすために、細かい部分にも贅の限りを尽くして築造した別荘です。この中でも臥龍院(がりゅういん)は、屋根は茅葺、農村風寄棟の平屋建てで、その美しさは、日本を代表する名建築家・故黒川紀章に「桂離宮にも劣らない。借金してでも手に入れたい。」と言わしめた希代の名建築です。平成28年(2016)には臥龍院、不老庵、文庫の3棟が国の重要文化財に指定、さらに令和3年(2021)には庭園を含む一帯が国の名勝に指定され、その価値や魅力が高まっています。
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大洲城(おおずじょう)
大洲城は、肱川のほとりにある小高い丘陵に築かれた平山城で、背後に流れる肱川を天然の堀として利用した梯郭式(ていかくしき)の城郭です。大洲城は、元和3年(1617)、伯耆(ほうき)の国(鳥取県)米子から加藤貞泰(かとうさだやす)が入城して以降、明治2年(1869)の版籍奉還まで大洲藩加藤家6万石の居城となりました。明治21年(1888)には天守が取り壊されましたが、平成16年(2004)に四層四階の天守が木造により復元されました。現在では、その復元天守に泊まるキャッスルステイができます。
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十夜ヶ橋(とよがはし)
第43番札所明石寺と第44番札所大宝寺に向かう途中の大洲市には、弘法大師が橋の下で野宿したという伝説に由来する十夜ヶ橋があります。弘法大師が四国巡錫中に、小川にかかる橋の下で仕方なく野宿することになり、空腹や寒さで一夜の野宿が十日にも感じられたことから、十夜ヶ橋と呼ばれるようになったと言われています。また、遍路が橋の上を通る時、杖をつかないという風習はこの話から起こったものです。現在では、橋の下に弘法大師が横になっている像があり、ここで野宿することが修行として正式に認められている珍しい場所で、八十八ヶ所番外霊場となっています。
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矢落川と松山自動車道(やおちがわとまつやまじどうしゃどう)
十夜ヶ橋を過ぎると、松山自動車道の下をくぐって、矢落川沿いを進みます。並行して松山自動車道が通っており、右を見れば、大洲ICの入口も見えます。先を急ぐ車を見ると、せわしなく過ぎていく時間を実感します。左を見れば、矢落川には野鳥が飛んでいます。ここは、自然を感じながらゆったりと歩きましょう。
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新谷(にいや)
元和9年(1623)、大洲藩初代藩主・加藤貞泰の遺領6万石のうち、2代大洲藩主・加藤泰興(かとうやすおき)の弟である加藤直泰(かとうなおやす)が1万石を分知されて成立したのが新谷藩で、明治2年(1869)の版籍奉還まで、加藤家によって治められました。現在の新谷小学校の地に藩庁として新谷陣屋があったそうです。新谷小学校には陣屋跡に唯一残る建物として、慶応4年(1868)に建築された木造平屋建・入母屋造りの桟瓦葺きの建物、麟鳳閣(りんぽうかく)があり、評定所や謁見所の役割を果たしていたそうです。