松尾峠へのみち
松尾峠へのみち(3.7km)
撮影ポイント
認定証を希望する方は、各コースの定められた撮影ポイントで申請者自身を入れた写真を撮影してください。
近隣の観光SPOT
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松尾坂口番所跡
関所のことを土佐では番所といった。土佐の国境には63の番所が置かれ、遍路や旅人を調べ、不法な出入国者を取り締ったのである。松尾坂は伊予・土佐を結ぶ重要な街道であったため、その麓にあったこの番所は特別に重視され、四国遍路の出入りできるのは、この番所と甲浦の番所だけであった。そのため多くの旅人の取り調べが行なわれ、享和元年(1801年)の記録によれば、1日に200人、多い日には300人にも達したとある。
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松並木の跡
松尾坂の街道全体に、松尾峠の名前の由来となっている古い松並木があり、その大木の下の通行はまことに快適な旅であった。戦時中、軍部の指示により船の用材にするためすべての並木松が伐採され、その根は掘られて松根油の原料とされた。その掘り跡が街道の各所に残っている。
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街道の石畳
この道は重要な街道であり、交通量も多かったため、雨水で土の流失のおそれのある所には、ところどころにこのような石畳を敷いて路面を整備していた。戦時中の材木運搬の際に大部分取り除けられ、現在はわずかにその一部分が残っている。
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茶屋跡
伊予・土佐両側に峠の茶屋があり、旅人はここで茶を一服し、眼下の宿毛湾の絶景に旅の疲れをいやした。昭和5年頃まで茶屋が営なまれており、駄菓子やだんご、わらじ等が売られていた。
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大師堂跡
松尾峠はよく遍路が通ったため、いつの間にか弘法大師を祭った大師堂が建ち、通行の遍路は必ず参拝して通った。昭和23年頃まで古いお堂が残っていた。
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松尾峠
標高300mのこの松尾峠は、伊予と土佐の国境にあり、眼下に宿毛湾を見おろせる絶景の地でもあった。この峠に宇和島と高知を結ぶ街道が通っていたので、幕府の巡見使をはじめ多くの旅人がここを通った。享和元年(1801年)の記録に、普通の日で200人多い日には300人が通ったと記されている。峠には茶屋や大師堂などもあって旅人はここで一休みした。国境を示す石柱は伊予側のものは貞享4年(1687年)、土佐側のものはその翌年の建立である。石柱は高知で製作し、下田までは海上を船で、その後は陸上を馬車等で運んだと伝えられる。昭和4年宿毛トンネルが開通すると、ここを通る者もなくなり、その頃まであった茶屋や大師堂もなくなった。
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純友城址
伊予掾であった藤原純友は、任期が満ちても京都に帰ろうとせず、海賊共を手下として豊後水道の日振島によって朝廷に反抗した。天慶4年(941年)追討使長官に任命された小野好古は、兵船二百余を以ってこれを攻めた。内応する部将があったために敗れた純友は、九州へ逃げるに際して、妻にその実父栗山将監入道定阿をつけて、この城に隠した。やがて純友と一子重太丸が討たれたことを聞いた妻は、悲しみのあまり物狂わしくなり、その年の8月16日この地で亡くなった。現在、この地に展望台が建てられている。
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子安地蔵
ここには室町時代から禅宗の安養寺があり明治4年に廃寺となった。廃寺の後、本尊の地蔵菩薩を祭ったのがこの地蔵堂で子宝に恵まれない人や、子供の健やかな成長を願う人々の信仰を今も集めている。